吾唯足るを知る(われただたるをしる)

吾唯足知3

随分と昔の話ではあるが、東京で不動産会社を経営する若き社長にお会いした折、その方が「私達は何の為に仕事をしているんですかね。私は思うんですが、今仕事している人も、今町を歩いている人も、つまるところ『幸せになりたい』と思って、今を行動しているんでしょうね」と、語り掛けられた。

「なるほど…」と私は思いながらも「それでは社長の考えられる 「幸せ』というのはどういうものですか」と、反対に質問をしたが、その社長は幸せの 『本質』までは考えておられない様子だった。

『幸せになりたい』とは誰もが願っていることだと思うが、『ほんとの幸せ』 については、今一歩深く考える人はいないようだ。『お金が欲しい』と言う人もいるだろうが、お金があれば幸せなのだろか。『不自由なく物が買え、好きな事は何でもできるから』と言う人もいるだろう。しかし、欲しいものがすべて手に入り、やりたい事が何でもできたとしても、果たしてそれが幸せだと言えるのだろうか。

例えば、今、毎月二十万円の給料をもらっているサラリーマンがいたとしよう。彼は何不自由を感じることなく幸せな生活を送っている。 ところが、ある時、同僚と酒を飲みかわしていたおり、「オレはようやく月収二十五万円になったけど、お前はどのくらい?」と聞かれた途端、心は蚤ぎ出し、会社に対する不平不満が生じ、その同僚に対しても嫉妬心を起こしてしまう。

これは、だれもが人ごとと片付けられない感情ではないだろうか。自分自身は何も変わっていないのに、人の言葉を聞いた瞬間に自分の幸せを失ってしまうのだ。

「吾ただ足るを知る」…京都・竜安寺にある蹲踞(つくばい)に刻まれている言葉として有名な句だ。幸・不幸は与えられた環境の違いで生じるのではなく、『人との比較』から生じる。ただ足る事を知り、与えられた環境に感謝し、不足を思うことなく生活しているとき、私たちはすでに幸せを感じているのだ。その幸せを失わない秘訣、それは自分を他人と比較しないことだ。他との比較の上に、真実の幸せは生まれない事を知るべきだと思う。

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大道無門(だいどうむもん)

外国の人は日本人の宗教感覚を不思議に思う。12月25日、国民の大半があたかもキリスト教信仰者であるかのようにクリスマスを祝い、その数日後の大晦日には除夜の鐘の音を聞いて諸行の無常を感じ、仏教信者に早がわりする。そして、また一日明ければ三社参りにと晴着をめかしこみ、神社を参詣しては日本古来の神道に、いとも簡単に衣替えできるからだ。

こうした、日本人のいわば節操のなさは、異国人にとって不思議であると同時に、許せない一面でもあるようだ。しかし、優柔不断に見えるこの日本人の「雑種性」が素晴らしいのだと私は思う。異国の文化を吸収し、染まるのではなく同化させて独自の文化を創造発展させる日本人。度量広く清濁併せ飲むことができる日本人を私は誇りに思う。今、日本人が世界の大国としてその地位を不動のものとしている背景にも、こうした日本人特有の民族性があるのではないだろうか。

「大道無門」という。「大道に至るに門無し」ということだが、門が無いのではなく、すべてが真理の道に至る門、入口だということだ。この道に至るに、キリスト教を学ぶもいいし、仏教を学ぶもいい。 あるいは儒教、道教、神道、なんだっていい。 心理学、天文学、物理学からだって、その道を極めればその道に至ることができる。道は真理であるが故に普遍的であり、あらゆる存在を肯定し、包み入れ、同化して排斥しない。だから一宗一派の教義にとらわれず、信・不信に拘らず、全ての人を抱きかかえて真理なる道へと導いてくれる。

人は真理なる道へ近づけば、正しい目が開かれ、道理を解する力を得る。しかし、一方で慣習的行事が迷信だと分かり、取るに足らないものだと見えれば、道理を盾にそれらを排斥してしまうのもまた同じ人なのだ。道を究める事の難しさがそこにある。極めて驕らず、大道が無門である事を知って排斥するのではなく包含し、同化しょうという度量をもってこそ、真に真理の道に至ることができる。

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