「反省猿」が一世を風靡してもう随分経つ。猿が反省するポーズが可愛くてよく見たものだ。
反省が必要なのは猿ではなく人である。反省する事は大事である。反省なしに人の成長は期待できないからだ。
「省」という字は「目を少なくする」と書く。目を軽く閉ざし自分の内面を見つめる姿だ。座禅をする僧侶や仏像は目を開けず、閉じず、まさに半眼にして下方に視線を落としている。目は内面に向かい、自分自身を見つめている。
人は他人の事はよく見えるが、自分の事となると全然と言っていいほど見えないものだ。目が外を向いているだけに、自分を見つめることは難しい。自分を見つめる事が出来る者は他人を批判する事などできはしない。自分の至らなさを十二分に知るからだ。
孔子様の高弟、曽子様は『日に三度吾が身を省みる』と言われた。四聖(孔子様の弟子である四人の聖人)のお一人とされる曽子様をして、自分自身を見つめることの難しさを説かれ、そのために一日に三度も自分自身を振り返る時間をもたれたと言うのだ。
日本各地にある禅堂入口で時折見かける「脚下照顧」の大きな木板。古びた物が多いが、入門者を射すくめるようで、厳しい禅堂に入るに当り、まずは自分の足もと、つまり「自分自身」を顧みろ、ということなのだろうか…。
足下とは自分自身であり、人としての基本である。我が師、永松統賢は常に基本に立ち返り、自分自身を省みることの大切さを説かれる。つまりは、「脚下照顧」の意味するところと同じなのであろう。
ただ一つ、忘れてはならないことがある。それは、脚下を照顧するにも「明かり」がいると言うことだ。事の善し悪しを論ずるには、基準となるべき「ものさし」が必要だ。善を行うにも、まず、何が善であるかを見極めなければならない。
「ものさし」…「良心」といってもいいのかも知れない。その「良心」という明かりに照らされてこそ、脚下を照顧できることを、まずは知ることが大切である。
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