私達の体の中には霊(たましい)が宿っていると言われる。この霊は仏様の分霊である。したがって、仏様は私たちの霊の母である。だから、ただただ清らかな霊である。この霊のことを本性とか、仏性とか、菩薩性などと呼ぶ。
般若心経(はんにゃしんぎょう)はこの本性を不垢不浄(ふくふじょう)・不増不減(ふぞうふげん)であると説く。汚れることもなければ浄まることもなく、増えることもなければ減ることもなく、永遠に無くならない絶対なる存在だと言う。
ところが、実際には私達は知らず知らずの内に悪い行いを為し、罪をつくり、本性を汚してしまう。そう、これでは般若心経の教えと矛盾してしまうのだ。
私達には確かに本性が宿っている。その本性は般若心経が説くように不垢不浄・不増不減の霊性である。しかし、私達は肉体を持つと同時に魂(こん)・魄(はく)というものも宿すのだ。「霊魂」と言うときの「魂」であり、「気魄」と言う時の「魄」のことである。詳しい説明は、また別の機会にと思うが、この魂魄が純粋な霊性を覆い隠し、この魂魄が人の善悪の行いによって汚れたり清まったりするのだ。
私達の肉体はこの霊魂の指示によって働くが、魂の力が霊の力よりも強ければ悪いことばかりをするようになる。反対に霊の力が魂の力よりも強ければ、善行を施して罪作りなことはしない。
それだけに、私達は自分の目や耳や鼻や口に、霊性(れいせい)の言うことをよく聞くように常日頃から言っておかなければならない。なぜなら、この四つの感覚器官はすぐに魂のいいなりになって、自分の欲望を満たす方向にばかり働くからだ。
仏教やヒンズー教には輪廻転生(りんねてんせい)の思想がある。生まれ変わりの法則のことだ。欲に負けた四つの感覚器官は、何時しかその機能を弱くし、寿命が尽きるときにはもっとも弱い器官より魂は抜け出して、輪廻の苦しみに落ち込んでしまう。そして、ある時は人として生まれ、ある時は畜生として生まれ、またある時は地獄・餓鬼道(がきどう)へ、そしてある時は阿修羅(あしゅら)・天上道(てんじょうどう)へと六道の旅路をあてど無く彷徨(さまよ)い、生まれたり死んだりを繰り返す。この「輪廻」の鎖に繋がれる事こそ、私達がもっとも恐れなければならない宇宙の法則なのだ。
昔、孔子様は弟子の顔回様に「礼に非ざれば視ること勿(なか)れ。礼に非ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれば行うこと勿れ。」と、四つの勿れ(四勿:しぶつ)を道徳の基本として教えられた。「礼に非ざれば」というのは、「道理に照らして正しくないこと」あるいは「自分の良心に照らしてやましいと思うこと」と考えれば分かりやすい。日本でも、「見ザル・聞かザル・言わザル」は有名だ。これも、おそらく同じ事を教えているのだろう。
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