慈悲仁愛

仏様のこころは「慈悲の心」と言われるが、なぜ仏様は悲しまれているのだろうか。私たちの霊(たま)しいの親様の声はいつも悲しみに満ちているのだろうか。

かの昔、イエス様は親様の命を聞いて、この世の中の人々に神様の存在とその愛の博さ・深さを伝えに降って来られた。30歳頃から、イエス様はその命を自覚し、人々におや様のことを語り始められる。しかし、多くの人々はそのイエス様をあざけり笑い、最後には十字架にかけて殺してしまう。

イエス様はどんなに辛かっただろうか。死が怖かったのではなかろう。同じ親様の子が親様の存在を信じないことが辛くて悲しくてしょうがなかったのだと思う。だから、きっと人知れずイエス様は涙を流されたに違いない。親様にはその辛い心の内を祈りという形で語られたのだと思う。イエス様の涙はまさに親様の涙であり、イエス様の苦しみは等しく親様の苦しみだったろう。

それから2千年、多くの御使い達が親様の命を帯してこの世に降り、神様の存在と神様の愛を説いている。しかし、それを聞く人の多くは、2千年前の人間と同じ過ちを繰り返すばかりのようだ。

ここに一人の少女がいます。幼くして生まれた使命を知るその子は、精一杯、真心を込めて友人達に道を伝える。しかし、結果は大人の社会の反映なのか、純粋で神様の御心にもっとも近いはずの子供達にさえ受け入れてもらえず、反対に笑いバカにされる有様だ。辛さのあまり少女の目は涙で腫れている。それでも必死で前向きに道を守ろうとする姿は、まさに天使そのものだ。少女の心はきっと親様に通じると私は信じる。

本当の信仰とは何だろうか。真に神様を求めるとは、どういうことなのだろうか。信仰とは、決して自分の欲望を満たすためにあるのではない。それは、すべての縁ある人々を愛することから始まるのだと思う。そして、その愛はどんなことがあっても挫けない、博く深い愛でなければならないのだと思う。親様である仏様の慈しみと悲しみに満ちた心を知ったとき、辛さを越えて人を愛する心を自分のものとすることができるのだと私は思う。

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shigeto の紹介

若いときから学んだ孔子や老子や釈迦などが説いた教えを日常の生活に生かす方法をワークショップなどを開いて仲間と共に学んでいます。
カテゴリー: 四字熟語 タグ: パーマリンク

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