幽谷の芝蘭、常の時に芳し(ゆうこくのしらん、つねのときにかんばし)…孔子家語の言葉を引いて、わが恩師が教えられた言葉だ。
深山幽谷に咲く芝蘭は誰に知られる事もないが、芳しい香りを放っている。人も誰に知られる事がなくても、為すべき事をなし、自分の成長に向かって怠りなく努めなければならないということだろう。
しかし、誰に知られなくても努力を惜しまないというのは、凡人にはかなり難しい事だ。我々はどうしても自分を正当に評価してもらいたいと願う。職場でも、学校でも、あるいは夫婦の間でも、自分が人のためであれ、何であれ、努力して成した事は認めてもらいたいと思うのが普通だ。もし、自分の努力が認められなければ、腐ってやる気を失ったり、時には認めてくれない人を恨んだりすることすらある。
人知られずとも淡々とその努力を続けるという事は、大変に難しい事だ。しかし、こうありたいと心がける事は出来る。君子と言われるような方の言行だ。そう簡単にまねる事はできまい。でも、自分もそうありたいと願うなら、少しずつではあっても近づけるにちがいない。
論語学而第一に「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや。」(まなびてときにこれをならう、またよろこばしからずや。ともあり、えんぽうよりきたる、またたのしからずや。ひとしらずしていきどおらず、またくんしならずや。)とある。
諸国を訪ね歩いて自分が理想とする道徳の世の実現を進言するも用いられなかった孔子様の言葉だけに、重い。
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